■歴史
〓明治6年 ほのか小学校の原点〓
明治4年の廃藩置県の後、名古屋では、義校が設立されました。義校は、愛知県や岐阜県で設立されたものです。そして、その一つが、明治6年(1873年)、覚円寺の寺子屋をもとにつくられた則武義校です。これが、ほのか小学校の原点になります。
○この地域の産業
明治初期のこの地域の産業は、農業が中心でした。水田では2毛作が行われ、表作が稲、裏作が麦やい草でした。畑では、換金作物の特産物として、瓜やホウレン草が栽培されていました。
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〓明治7年 公立の中島学校へ〓
明治4年に文部省が設置され、翌年には「学制」が発布され、教育行政区である中・小学区が定められました。これを受け、明治7年(1874年)、則武義校は公立校として中島学校に改称しました。
○このころの学校
一斉授業が始まります。3人掛けの机と椅子、黒板、九九の掛図など、今の学校に近い授業が行われるようになりました。
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〓明治12年 則武学校に改称〓
明治11年、これまで一般行政区であった大区小区制が廃止され、郡区町村編制法により、名古屋区ができました。1879年(明治12年)には、則武学校に改称しました。
〓明治18年 日比津学校へ〓
明治12年、教育令が出され、これまでの学制による教育行政区から町村に、学校設置の主体が変わりました。明治14年には、複数の町村をまとめて一学区とすることができるようになりました。これにより、明治18年(1885年)、尋常小学日比津学校を設置しました。
〓明治22年 町村合併により鷹場尋常小学校へ〓
明治22年(1889年)、市制・町村制により名古屋市が誕生しました。そして、町村合併が盛んに行われました。これを受け、鷹場尋常小学校に改称しました。
〓明治39年 町村廃合が進み中村尋常小学校に〓
町村廃合が進みます。明治39年(1906年)には、中村という村ができます。これに伴い中村尋常小学校になります。さらに2年後には、村内を東部と西部に分け、明治41年に中村東部尋常小学校になりました。
〓大正10年 名古屋市に併合され則武尋常小学校に改称〓
大正10年(1921年)、中村が町村編入で名古屋市に併合され西区に入りました。そして、則武尋常小学校になりました。この年、亀島尋常小学校が分離しました。そして、大正15年、高等科を設置したことにより則武尋常高等小学校となり、14年後の昭和10年に高等科を豊国高等小学校に移すことで、則武尋常小学校に名前を戻します。右の写真は、大正13年に撮影された則武尋常小学校です。
〓戦時中、則武国民学校に改称〓
昭和12年、名古屋市に中村区が増区されました。そして、昭和16年(1941年)、国民学校令が出されたのを受け、則武国民学校となりました。
〓名古屋市立則武小学校が誕生〓
戦後、昭和22年(1947年)の学校教育法、教育基本法を受け、名古屋市立則武小学校が誕生しました。その後、本陣小学校が分離しました。
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